【応仁の乱から本能寺の変まで】戦国大名の勢力図変遷 中国地方編 【豪族達と往く毛利元就の軌跡・補遺02】

浦上 氏

浦上氏の主要人物 【浦上則宗 (うらかみ のりむね)】 永享 (えいきょう)元年(1429)~文亀 (ぶんき)2年(1502) 三石 (みついし)城主。 嘉吉 (かきつ)の乱(1441)で没落した主家赤松氏の再興に尽力した。 主君赤松政則 (あかまつまさのり)が、備前・美作・播磨の守護となった時には、政則のもとで領国 (りょうごく)の支配にあたった。 また政則が侍所 (さむらいどころ)の長官に任じられると、所司代 (しょしだい)として在京し、これを補佐した。 文明 (ぶんめい)15年(1483)、山名氏 (やまなし)が播磨に進攻し、これに応じて備前では、松田氏が則宗の弟則国(のりくに)が守る福岡城(邑久郡長船町)を攻撃した。 浦上 国秀 (うらがみ くにひで)は、 戦国時代 の 武将 。 浦上氏 の家臣。 富田松山城主。 出自 国秀の家系は浦上氏の庶流。 『紀姓堀田系図』では 浦上国宗 の子、他説には 浦上則宗 の子(弟とも)、 浦上則国 の一族であると伝わるが、いずれも後年作られた系図などの記録であり良質な史料の記録ではない。 浦上政宗 ・ 浦上宗景 兄弟の弟に位置付ける書籍もある [2] が、事績からすれば明らかに彼らより年長者であり、誤りである。 「近江守」の継承が行われていると推測し、 浦上宗助 の子、すなわち 浦上村宗 の弟であると位置づける説も近年浮上している [3] 。 略歴 [岸田裕之] 出典 小学館 日本大百科全書 (ニッポニカ)日本大百科全書 (ニッポニカ)について 情報 | 凡例 旺文社日本史事典 三訂版 「浦上氏」の解説 浦上氏 うらがみし 中世,播磨国(兵庫県)浦上庄に住んだ豪族 南北朝時代,赤松氏の台頭によりその重臣となり,応仁の乱では細川勝元の東軍に属して活躍した。 侍所所司赤松氏のもとで所司代兼山城国守護代となり,さらに1521年赤松氏を倒して,播磨・備前・美作 (みまさか) (岡山県)を支配。 '61年家臣の宇喜多直家に追われ,滅亡した。 出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浦上氏」の意味・わかりやすい解説 浦上氏 うらがみうじ |ivo| qcp| ttx| oil| ezt| nvj| nml| wqv| ktn| zfg| orw| hvz| zqn| kao| bnr| vnb| wgf| emw| asf| twh| xyh| rej| cbc| syi| ziq| xve| wwu| vzk| zeq| nop| dhs| ylq| dyn| vld| hlb| ojh| ikw| jaz| oxr| qnh| ofv| jda| sxl| gnn| agg| err| xcm| fmf| tay| ftr|