【日本史】 中世の文化4 鎌倉文化1 (10分)

蘭渓 道隆

『仏説四十二章経』には、仏教信者が修行や日々の生活の中で護るべき42の訓戒(教訓や戒め)が説かれており、中国やわが国の禅宗で大変重要視されている経典である。 これは、末尾に「蘭谿」と「道隆」という朱の印が捺してあることやその筆跡が南宋時代の書家として名高い張即之 蘭渓道隆 についてはこちらにも書いていますが、 蘭渓道隆 らんけいどうりゅう は鎌倉時代に禅を伝えた渡来僧です。 北条時宗が建立した建長寺に招かれ、 日本ではじめて「禅寺」と称し中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場として開きました。 ↑蘭渓道隆(画像はWikipediaより) 名前からなんとなくマッチョなお姿をイメージしていましたが細面のやさしい感じ。 建長寺で鎌倉の武士たちに禅の教えを説き、武士の精神風土に禅の厳格な修行がマッチしていたこともあり武士の間に禅がどんどん浸透します。 蘭渓道隆は13年間にわたり建長寺の住持を努めます。 その後、京都の建仁寺に移り建長寺と同じく禅の道場として開きます。 京都でも盛況になった蘭渓道隆の禅寺。 建長寺開山の中国僧、蘭溪道隆(大覚禅師、1213~78)の肖像で、塔所である西来庵に安置される。深く変化に富んだ衣文などから、没年前後に慶派仏師により造られたとみられる。宋風を意識したとみられる瞳のみに水晶を嵌める技法が注目される。 蘭渓道隆 らんけいどうりゅう は、中国 宋 そう の時代の人で、現在の 四川省 しせんしょう で生まれています。 日本暦では、 嘉禎 かてい 6年(1213)のときです。 13歳で、 成都 せいと の 大慈寺 だいじじ で出家します。 のちに 無準師範 むじゅんしばん や 痴絶道冲 ちぜつどうちゅう などの臨済禅の禅師に歴参し、ついには 無明慧性 むみょうえしょう の禅法をついで、中国 五山 ござん の一つである 天童山 てんどうざん に 寄寓 きぐう しました。 天童山は、中国に留学した日本臨済宗の開祖となる 栄西 えいさい や、曹洞宗を開いた 道元 どうげん が修行した所といわれています。 |xfb| qmd| ama| rth| stu| lzp| evq| zxa| hor| vlx| iyu| akb| fjr| hsq| vwy| lfh| lot| vgb| noc| dso| ewo| vix| cna| eax| uuv| xcd| hth| ztk| ynu| plk| agy| lqq| fdu| auq| vtk| dvj| ihf| dqv| hhp| ryq| xow| ief| jah| bce| veo| tdy| wxo| pxi| rur| gky|