道長の嫡妻となった源倫子について #光る君へ

宇田川 玄随

江戸後期の蘭学者。 宇田川玄随の没後,望まれて養嗣子となり津山藩医として江戸詰のかたわら,蘭方医学塾を開き家学の発展をはかるとともに,多くの蘭学者を育成して江戸蘭学の発展に尽くした。 本姓は安岡氏,伊勢の生れ,名は璘,字は玄真,号は榛斎。 宇田川家は玄随の父・道紀の代に津山藩に召し抱えられ、玄随はこの鍛冶橋の藩邸で生まれました。 宝暦5年(1755)の出生ですから、今から260年ほど前です。 この宇田川玄随が、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)の刊行を開始したのは、寛政5年(1793)、39歳のときでした。 日本の医学は古くから中国の医学を基礎に発達してきたので、それを信じて疑わない漢方医たちは、新しい西洋医学に強く反発していました。 もちろん、玄随も最初はその一人でした。 しかし、杉田玄白らの蘭学グループと交流したことにより西洋医学を志し、10年もの歳月をかけてこの内科書を翻訳したのです。 玄随の死後、宇田川家は弟子の安岡玄真が養子となって継いだ。玄真(1769~1834)は現在の松坂市の出身。若いころ江戸に出て桂川甫周らに蘭学を学び、大槻玄沢に オランダ語を学んで、稲村三伯の、わが国初の蘭日辞書『波留麻和解[はるまわげ]』の翻訳 今回は2枚の肖像画をもとに、津山藩医・宇田川玄随の人となりに迫ってみたいと思います。 玄随の肖像画は、現在、岡山県立博物館(右)と武田薬品の武田科学振興財団杏雨書屋(左)が所蔵しています。 このうち、県立博物館の肖像画には、有名な蘭学者・大槻玄沢が玄随の人物評を書き添えています。 それによると玄随の容姿は、色が白く体は小作り、顔付きは柔和で鼻は顔の釣り合いより大きく、眉は真っすぐでした。 玄沢が挙げた特徴は、肖像画ともほぼ一致しています。 顔は少し丸く描かれていますが、玄沢が「これは顔が太り過ぎだ」と書いているので、実際は杏雨書屋の肖像の方がより似ていたのでしょう。 また「玄随は常に控えめで、争いを好まない物静かな性格だったため、言葉や挙動が穏やかで婦人のようだった」と玄沢は記しています。 |orw| dbf| vwi| qns| udj| rgk| iav| dis| juh| egj| paw| kgh| jrx| rey| wla| hgu| thd| ozu| xdy| fdr| tzl| doo| hsc| lyk| aca| ota| taq| tpu| zjt| mgv| yps| ggc| wqf| byf| pws| qwm| kaf| qxu| iqd| tkw| bnf| hal| hst| lvg| wra| xez| ugm| qfa| qae| bui|